『ポートレイト』

ポートレイト:Soseki21ブログ

あいつの訃報を聞いたのは、キンモクセイが香りはじめた秋のことだった。

学生の頃から写真を撮るために旅を繰り返していた彼だったが、いまニュージーランドにいるよ、おまえも部屋に閉じこもってないで世界へ出てこいよ、などという音沙汰がなくなったかと思ったら、病に倒れていたのだという。癌だった。

わたしは遠い記憶を掘り起こしながら彼の自宅を訪ね、やつれて別人のように変わってしまった彼の妻に挨拶をした。かなしみに疲れていたが、美しいひとだった。

とても残念です・・・。そのあとに言葉が続かない。わたしは沈黙を噛みしめた。それがあいつの死の重みなのかもしれない。

それほど親しくしていたわけでない。けれども離れていたわけでもなかった。適当な距離を置いて、会ったり会わなかったりした仲だ。遺影のなかで、あいつはまぶしそうな目をして笑っていた。おまえもいずれここに来るんだぜ、そう言っているような、そうでもないような顔だ。

生前には、あのひとがよくしていただいて。

ひとまわりちいさくなったような彼の妻は、それだけ言って俯いた。

しばらくあいつとの思い出やとりとめのない話をしていたのだが、わずかに沈黙していた彼女は、あなたなら・・・いいかしら。そう言って、すっと真っ直ぐにわたしの方を見つめた。なんでしょう、わたしにできることであれば? 彼女の視線に戸惑いながらもそう言った。ちょっと来てくださらない。彼女は立ち上がって、わたしを導いた。

訪問したときには気付かなかったのだが、その住まいには地下室があった。

彼女に導かれるままに階段を降りる。冷たい空気は、まるで死者のぬくもりのようにわたしの周囲を包み込んだ。そうして暗い扉を開けて、彼女が電灯のスイッチを入れた。

途端に大勢の視線がわたしに向けられた。はっとした。それはすべて、彼が撮影したひとびとの笑顔だった。彼がこれを?わたしは彼女に訊いた。風景ばかりを撮っているんだと思ってた。そうなの、わたしにもあまり話さなかったのだけれど、あのひとは密かにたくさんのポートレートを撮っていたの。 目尻をゆるめた白髪の老人がいる。 生まれたばかりのちいさな微笑がある。 唇を歪ませたような笑いなのか苦痛なのかわからない表情がある。

空に向けて大きな口を開けた楽しそうな顔がある。 たくさんの笑顔が壁一面に貼り付けられていた。冷たい地下室の空気を忘れた。それは・・・そう、しあわせな風景だった。人間のぬくもりを感じさせるような。コラージュのように壁一面に貼られた写真は、わたしをとてもやさしい気持ちにさせてくれた。部屋全体を見渡した。なぜあいつはこの写真を世のなかに出さなかったんだろう。 この写真は?わたしは一枚の写真を指差した。

その写真だけは、笑顔のコラージュから少し離れるようにして貼られていた。若い凛とした顔つきをした美しい女性だった。

被写体として笑っていないのは、その女性だけだ。厳しい顔をして、ファインダーのこちら側を睨みつけるように強い視線を向けている。撮影する人間を責めるように、挑むように、きつい視線を投げかけていた。薄い唇を結んで、緊迫した面持ちをしていた。どこか寂しそうにもみえる。 知らないわ。彼女は、写真のほうを遠くを見つめるような目で見ながら言った。誰なのかしら。でも、あのひとにとっては大切なひとだったと思うの。

あのひとにも、わたしに話すことのできないひそかな恋でもあったのでしょう。 いまはもう、知ることもできないけれども。

彼女は少し言葉を含むようにして話した。真実を知っているのかもしれない、そんな気がした。わたしは、そういえば生前にあいつが何かを話したがっていたことを思い出した。聞いてほしいことがあるのだが・・・と言ったまま、あいつは言葉を止めて、いや、やめておこう、話してどうなることでもないし、と笑ったのだ。

あなたの写真がありませんね。わたしは話題を変えようと思って話した。そうなの、わたしの写真はすべて棺のなかに入れて焼いてもらいました。だから何も残っていません。それが遺言だったので。でもね、このひとを置いていってしまって。彼女は、ファインダーを睨みつけるような女性のポートレートの前に佇み、そのひとの顔の輪郭を細い指でなぞった。 あのひとが、寂しくなければいいんだけど。大切な写真を置き忘れたわ。

答えに迷ったのだが、勇気付けることにした。あなたの写真がたくさんあるから、大丈夫でしょう。あいつもしあわせものだ。たくさんのあなたの写真に囲まれて。彼女は、静かに微笑んで答えた。写真は写真でしょう? でも、わたしはここにいます。ひどいひとよね。いまとなっては浮気したでしょうと問いただすことも、怒ることもできないんだもの。困った置き土産だわ。 行きましょう。彼女は部屋から出た。わたしはもう少しだけ冷たい空気に浸っていたい気がした。〈了〉

 


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